産業保健コラム

廣瀬 一郎 相談員

    • カウンセリング
    • カウンセリングルームこころの栞 主宰カウンセラー
      ■専門内容:カウンセリング全般
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“機”上の空論!?

2018年06月


 ある日空港で買い求めた本を機上で読んだ。最近大学名を冠につけた本の題名がよく目につくが、この本の題名も「ハーバード の人生を変える授業」タル・ベン・シャハー著である。その中の〈親切な行動をする〉の項目に 〈親切な行動以上に利己的な行動はない 〉と書いてあった。私はまさしく「そうだ」と膝を叩いてしまった。内容を読んでみると親切な行動をするとその効果は喜びとして自分に返ってくるとある。与えることの喜びは絶大なものである。日本にも「情けは人のためならず」との諺がある。しかし私の親切への独創性は以下のようになる。親切は相手が親切をされたと気づかないようにしたい。ほくそえんだり、悦にいりたい訳ではないが、相手が親切に気がついてしまうと親切が親切でなくなってしまったような気がする。その上にお礼を言われたりすると、自分がついつい傲った気持ちになる。この傲りは肯定的な感情と否定的感情が入り交じった複雑でアンビバレントな気分である。だから、そう感じることは時には厄介なので、それが親切なことだとしても、私が一方的にしただけで何事もなかったかのごとく通りすぎたほうが安心な気持ちであると私は感じてしまうのである。一方で自分が自分自身のことで手一杯の時に、通常は他人のことなど目に入らないのであるが、そんなときこそ他者へ何か親切なことをしてみると、いっぱいいっぱいのはずの自分のこころの中にほのかにゆとりが湧いてきたりする。まさしく親切の副次効果である。これこそ人のためならずである。

 前述の著者は、〈心の寛容さをもつこと、他人と分かちあう生き方をすることは、無限に蓄えられた「精神と感情の富」を引き出す最良の方法なのです〉と述べ、〈幸福は、分かちあうことで決して減らない〉との仏陀の言葉で締めている。それはその通りだと思う反面私風の利己主義が働くのかもしれない。

 ところで私はカウンセリングを業として行っている。カウンセリングは親切でしているわけでも、ましてやお節介でしているのでもない。逆にお節介はもちろん親切心ではカウンセリングは行えないであろう。なぜなら親切心でさえカウンセラーの恣意的感情であり、カウンセリングで大切な「共感的な理解」から程遠くなってしまうように思えるからである。日常生活においてもカウンセリングにおいてもありのまま、あるがままの自然(じねん)モデルでいきたいと思っている。極意をつかむにはまだまだほど遠いが少しでも近づけるように研鑽を積んでいきたい、と思っている。つまりありのまま、あるがままの親切ごころを持たない自然な自分でカウンセリングに取り組みたい。

 なお、自然モデルについては「心理療法序説・河合隼雄著」や福永光司の「老子」を読まれてみると良いだろう。最後に、この時のフライトは充実したこころとのファイティングとなった。

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