2023年01月
化学物質による職業がん対策
現在、国内で輸入、製造、使用されている化学物質は約7万種類とも言われており、その上に毎年1,000種類以上の新規化学物質が登録されてきています。
その中には危険性や有害性が不明な (許容濃度や発がん性等の疫学的知見もない) 物質も少なくありません。
こうした中で、化学物質による職業がんは、毎年1,000件前後(石綿関連が大半)の発生が続いています。
労災補償状況 令和元年(1,030)、2年(968)、3年(951)
化学物質による職業がんの労災補償の対象(職業病リスト)→後述
化学物質による職業がんは,発がん性のある化学物質(以後、発がん物質という)にばく露することが原因で発症します。
従って、発がん物質によるばく露を防げれば、職業がんは予防できるということになり、職場における「発がん物質の特定」と「リスク評価」とが、発がんを未然に防ぐ予防対策の基本になります。
しかし、発がん物質を事前に特定することは、簡単ではありません。
発がん物質のばく露から発がんに至るまでの期間(潜伏期間)は数年から数十年と長期間のため、発がん物質との因果関係の確立を難しくしています。
また、がん原性因子が多数ある場合には、作業内容とがんとの関連性(因果関係)の判断が難しい場合が多いと言われています。
さらに、低濃度複合ばく露に関する知見は殆んどありません。
職業がんの歴史は、後追いの歴史
同じ職業で同じ種類のがんが多発し、その原因を調査した結果、その職業に特有の発がん物質が発見されて、発がん物質へのばく露とがん発症との因果関係が証明されて、その後に初めて対策が始まるという「後追い」が繰り返されてきました。
発がんが「ヒトで実証」された後に、つまり犠牲者が出た後に対策がとられています。
ヒトをモルモット替わりに使っているのと同じことになります。
また、発がん物質が特定されても、それまでに受けたばく露は帳消しにはならず、いずれはそのツケを払うことになります。
(過去のばく露は解消されず、発がんに至ることが少なくありません)
現在でも同じような「後追い」の事例が起きています。
最近の職業がんの事例→後述
クボタ・ショック→迅速な基本的対応の必要性
発がん物質が特定できれば、発がん性の無い・少ない代替品に替えるとか、職場の作業環境改善、作業者へのばく露低減措置の実施等によって、ばく露をコントロールできます。コントロールが出来ないものは製造・使用禁止措置がとれます。
しかし、これらの措置には経費・時間がかかることや諸々の事情から、迅速な対応が容易でない場合があります。
この対策の遅れが、重大な被害をもたらす結果になることがあります。
石綿を例にとりますと、20世紀前半に石綿製造に係る労働者の間に石綿肺、肺がん、中皮腫等が発生することが既に報告されており、かなり早期から石綿の有害性については認識されていました。
にもかかわらず、わが国では規制や対策の遅れから石綿ばく露は続き、2005年の「クボタショック」で大きな社会問題となりました。
この事例からも、迅速な有害情報の周知、リスクの共有、作業環境の改善等によるばく露低減措置の実施等が、いかに重要であるかがわかります。
「発がん物質が特定」できれば、取り扱う場合の「リスクを正しく評価」し、「リスクに応じた対策」を迅速に実施するといった基本的な措置が必要です。
化学物質取り扱い上の留意点
(1)化学物質の有害性(ハザード)には、発がん性等の重篤なものも多い。
(2)がん等の遅発性の健康障害は、ばく露を受けてから発症するまで10~数10年を要します。この間に対策を怠った場合には、発症に気づいてから対策をとっても、過去のばく露は解消されず、発がんに至ることが少なくありません。
(3)化学物質の有害性は、不明なものも多く、現時点で「有害性が明確になっていない」ことが、「有害ではない」ことではありません。
・有害性が不明であることは、有害性が低いこととは違います。
・「有害性のより低い物質への代替」には、有害性が「低いことが明らかな」化学物質への代替が必要です。
具体的には、ばく露限界がより高いものへ、GHS区分では、有害性が低い区分へ(発がん性・区分1から区分2へ)
(4)法令で規制されていない物質は、「有害性がない物質」ではありません。
また、規制の強さが、有害性の強さとは限りません。
(5)毒であるかどうかは量で決まり、毒でないものは存在しません。
化学物質を取り扱うことによるリスクを正しく評価し、リスクに応じて対策を講じることが必要です。
職業がんの特徴
病理組織変化、症状、治療は一般のがんと変わりませんが、次のような特徴があります。
(1)発症年齢が若い
(2)潜伏期が長い
(3)離職後も発症の可能性がある
職場で、希ながんが多発した場合、また、同じ種類のがんが多発するような場合は、職業がんを疑ってみることが必要です。
職場におけるがん発生の届け出制度の創設されました
事業場でのがん発生の把握の強化(安衛則第97条の2) 2023(R5).4.1施行
事業者は、化学物質又は化学物質を含有する製剤を製造し、又は取り扱う業務を行う事業場において、1年以内に2人以上の労働者が同種のがんに罹患したことを把握したときは、当該罹患が業務に起因するかどうかについて、遅滞なく、医師の意見を聴かなければならない。
また当該医師が、当該がんへの罹患が業務に起因するものと疑われると判断したときは、遅滞なく、当該がんに罹患した労働者が取り扱った化学物質の名称等の事項について、所轄都道府県労働局長に報告しなければならない。
発がん性のある化学物質
前回、お話ししましたように、職業がんを最初に報告したのは、1775年にイギリスの外科医P. Pottです。
当時、イギリスでは煙突掃除屋さんという職業があり、孤児等の貧しい少年達が煙突の煤掃除に従事していました。少年達の股(陰嚢)には、煤(タール等発がん物質)がこびり付き、10年以上の潜伏期間を経て、成人になった頃に陰嚢がんが多発しました。
その後、コールタール、クレオソート油、ヒ素による皮膚がん、染料工場での膀胱がん等、多くの職業がんの報告がなされました。
日本での職業がんの最初の報告は、
・1936年に製鉄所付属病院医師によるガス発生炉作業者の肺がんです。
その後、
・戦時の毒ガス工場(マスタードガス)による肺がん、
・染料(芳香族アミン(ベンジジン、2-ナフチルアミン等))による膀胱がん等の尿路系腫瘍、
・コークス・発生炉ガスによる肺がん、
・銅精錬工場の肺がん・石綿工場の肺がん等、
・クロム工場(クロム酸塩・重クロム酸塩)での肺がん
等が職業がんとして知られています。
1957~1960年頃、サンダル製造に用いていたベンゼンゴム糊のベンゼンのばく露による骨髄障害、白血病が社会問題となりました。 ヘップサンダル事件→後述
現在、化学物質による職業がんの労災補償の対象物等については、労基則 別表第1の2(職業病リストと言われている)の七(下記)に示されています。
該当するものがある職場では、適切な管理ができているか再チェックしてください。
労働基準法施行規則 別表第1の2
七 がん原性物質若しくはがん原性因子又は
がん原性工程における業務による次に掲げる疾病
1 ベンジジンにさらされる業務による尿路系腫瘍
2 ベーターナフチルアミンにさらされる業務による尿路系腫瘍
3 四―アミノジフェニルにさらされる業務による尿路系腫瘍
4 四―ニトロジフェニルにさらされる業務による尿路系腫瘍
5 ビス(クロロメチル)エーテルにさらされる業務による肺がん
6 ベリリウムにさらされる業務による肺がん
7 ベンゾトリクロライドにさらされる業務による肺がん
8 石綿にさらされる業務による肺がん又は中皮腫
9 ベンゼンにさらされる業務による白血病
10 塩化ビニルにさらされる業務による肝血管肉腫又は肝細胞がん
11 オルト―トルイジンにさらされる業務による膀胱がん
12 一・二―ジクロロプロパンにさらされる業務による胆管がん
13 ジクロロメタンによりさらされる業務による胆管がん
14 電離放射線にさらされる業務による白血病、肺がん、皮膚がん、骨肉腫、甲状腺がん、多発性骨髄腫又は非ホジキンリンパ腫
15 オーラミンを製造する工程における業務による尿路系腫瘍
16 マゼンタを製造する工程における業務による尿路系腫瘍
17 コークス又は発生炉ガスを製造する工程における業務による肺がん
18 クロム酸塩又は重クロム酸塩を製造する工程における業務による肺がん又は上気道のがん
19 ニッケルの製錬又は精錬を行う工程における業務による肺がん又は上気道のがん
20 砒素を含有する鉱石を原料として金属の製錬若しくは精錬を行う工程又は無機砒素化合物を製造する工程における業務による肺がん又は皮膚がん
21 すす、鉱物油、タール、ピッチ、アスファルト又はパラフィンにさらされる業務による皮膚がん
22 1から21までに掲げるもののほか、これらの疾病に付随する疾病その他がん原性物質若しくはがん原性因子にさらされる業務又はがん原性工程における業務に起因することの明らかな疾病
ヘップサンダル事件
オードリーヘップバーンとベンゼンゴム糊による白血病
1954年(S29)、オードリーヘップバーンの「ローマの休日」が日本でも上映され、大ヒットしました。
この映画の中でヘップバーンが履いていたミュールが「ヘップサンダル」として大流行し、日本中の女性が買い求めました。
そのため、生産が需要に追い付かず、生産の一部を一般家庭の主婦が、内職として担っていました。
サンダルの接着剤としてベンゼンゴムのりが使用されていたが、家庭の風通しの悪い部屋の中でサンダルを作り続け,高濃度のベンゼンに長期間にわたってばく露した。当時の調査では,ベンゼンの作業環境中濃度は100~400ppm程度であったといわれている。
その結果、主婦の一部に再生不良性貧血(造血障害による貧血)や白血病を発症し死者も発生した。
これを教訓として、1960 年(S36)に、「有機則」が公布された。
ベンゼンはその後、がんを発生させる可能性が高いことから「特化則」の対象となった。
ベンゼンの代わりに、トルエン、キシレン、ノルマルヘキサン等が使用されるようになったが、新しい問題が発生した。
トルエン、 キシレンには、微量のベンゼンが混在し、血液の障害をもたらし、ノルマルヘキサンは、当時は未知の毒性であった末梢神経での多発性神経炎を引き起こした。
直近では、印刷工場での胆管がん,染料中間体製造工場での膀胱がんの事例
これらの事例の特徴・教訓は、
(1)未規制の化学物質であった
(2)高濃度ばく露状態で長期間放置
(3)作業環境測定が機能していない
(4)専門家の職場巡視が皆無
対策として、
(1)長期間の第3管理区分の職場への改善指導。
(2)化学物質のリスクアセスメントを徹底する等、既存の対策を周知徹底すること。
(3)経皮吸収の大きな化学物質については、保護具等を含めた作業管理のあり方、個人ばく露濃度の測定や代謝物測定の検討が必要。
事例-1 印刷事業場で発生した胆管がん
2012年(H24)に、大阪府内にある印刷事業場の労働者から化学物質の使用により胆管がんを発症したとして労災申請があった。
調査の結果、原因物質はインク洗浄剤に含まれていた「1,2-ジクロロプロパン」と「ジクロロメタン」と推定された。
過去には換気が不十分な作業場において、1,2-ジクロロプロパン等の脂肪族塩素化合物を含む有機塩素系洗浄剤が多量に使用され、洗浄作業に従事していた労働者は高濃度のばく露を受けていたと考えられる。
安衛研の調査における、当時を想定した模擬実験では、個人ばく露濃度はACGIHの許容濃度の2~21倍であったと報告されている。
発症年齢が25~45歳と若く、ばく露期間は3年8か月~13年2か月、ばく露から発症までに潜伏期間は7年5か月~19年10か月と比較的短い期間であった。
1,2-ジクロロプロパンまたはジクロロメタンに長期間、高濃度ばく露で胆管がんを発症し得ると医学的に推定できると結論付けた。
当時、ジクロロメタンは有機則により規制されていたが、1,2-ジクロロプロパンは特別規則の対象外の物質であったことから、不適切な作業環境管理が胆管がんの多発の原因になったと考えられる。
1,2-ジクロロプロパンは、工業的使用量も多くはなく、有害性が未知な部分が多かったが、有害性情報が十分ではない物質を安易に使用したことが原因である。
本件をきっかけに使用化学物質と胆管がんの因果関係がわかり、国内で他にも労災認定事例が発生した。
これまで胆管がんは、国際的にも職業がんの知見はなかった。
有害性が不明であること(分類できない)は無害であることを意味しない。
ジクロロメタンは、工業的によく使われていたが、この高濃度で長期間ばく露した事例で初めてヒトへの発がん性が判明した。
毒でない物は存在せず、ばく露量次第である。
その後、
1,2-ジクロロプロパンを発がん物質として特化則で規制 2013(H25)施行
ジクロロメタンを発がん物質として特化則で規制 2014(H 26)施行
事例-2 染料中間体を製造する工場で発症した膀胱がん
2015年 福井県の染料・顔料中間体を製造する化学工場からオルトトルイジン等の化学物質を取扱う業務に従事していた労働者5名(うち1名は退職者)から、膀胱がんを発症したとの労災申請がなされた。
安衛研による災害調査では、
・作業環境測定、個人ばく露測定の結果は、日本産業衛生学会が勧告する許容濃度の1ppmより極めて低いことから、経気道ばく露は少ない。
以下の事から、オルト-トルイジンによる経皮ばく露が主な原因と推測された。
・再現作業の前後で、作業員の尿中のオルト-トルイジンが増加した
・オルト-トルイジンを含む有機溶剤で作業服が濡れることがしばしばあった
・内側がオルト-トルイジンに汚染されたゴム手袋を繰り返し使用していた
オルト-トルイジン(芳香族アミン)
・特徴的な臭気のある、無色の液体で沸点200℃で気化しにくい
・IARC グループ1 「ヒトに対して発がん性がある」 (2010年)
→当時、法規制はなかったが特注項目
・経皮吸収による全身への健康影響が無視できない
・皮膚腐食性・刺激性・・・GHS区分外
その後、
・2017年、特定化学物質(第2類物質)、特別管理物質に追加された。
・さらに、特化物のうち、経皮吸収による健康障害の恐れのある物質について保護具の着用や身体が汚染されたときの洗浄が義務づけられた。
・2019年、オルト-トルイジンにさらされる業務による膀胱がんが、職業病リストに追加された。
繰り返しになりますが、化学物質による健康障害を引き起こさないためには、化学物質の有害性が不明とか、法令による厳しい規制がないとかを、「有害性がない物質である」と誤解しないこと。
そのうえで、化学物質のリス評価(アセスメント)の実施、リスクに応じた低減措置の実施等、ばく露防止対策を徹底してください。
臼井繁幸 産業保健相談員(労働衛生コンサルタント)
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